作家はなぜ病むか:その2
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その2:複数の人生
前回のつづき。
作家が病む理由はいくつかあると思うが、ひとつは前回書いた『脳内(思考)の解像度の高さ』。
ひとつの事柄について『意図的』or『無意識』に密な理解と思考が展開してしまい脳内がオーバーフローしてしまうことだ。
もうひとつは『複数の人生』。
漫画や小説などを描くときに、何を描くか。
おそらく多くの場合において『人物』である。
物語には多くの人物(キャラクター)が登場し、ドラマを展開する。
人物を描くときに重要になるのが、描く人物について深く理解して想像することだ。
・主人公はどんな人物か
・どんな過去があるか
・どんな悩みがあるか
・趣味は?
・交友関係は?
・普段なにを考えている?
・◯◯◯という状況ではどんな発言をする?
・他の人物に対して何を語る?
などなど。
人物の設定を考えるだけでも大掛かりな作業だが、イキイキと描くためにはできるだけその人物になりきって、自分と重ねてイメージする必要がある。
作家さんによるかもしれないが、多くの場合は、描く人物に自己投影して『その人物として生きる』ことで物語に反映させていると思う。
つまり、というか端的に言えば『別の人間の分も生きる』のである。
何人分も生きる
物語は登場人物が一人では成立しないので、登場する人間の数だけ作家は人生を歩むことになる。
主要な人物が10人登場したら10人分の人生を仮体験することになるのだ。
ただし、主要ではない人物やモブのようなキャラクターは除く。
(しかしHUNTER×HUNTERとか面白い漫画を読むとどうでも良さそうなキャラクターでも緻密に設定されているから、作家さんによっては端役の人物もきちんと考えていると思う。)
もちろん頭の中だけで展開する仮想の他人の人生だが『人間味』や『リアリティー』を持たせるためには、やはり限りなく現実味を持って考える必要があるのだ。
漫画のネームを考えながら、
「オレの人生だってまともに考えられてないのに、このキャラたちがどうやって生きるか考えなきゃならんのか…!」
と途方に暮れた経験は実は何度もある。
自分の人生(自分ひとり分だけを)をあれこれと考えてコントロールするだけでも精一杯なのに、いわば他人の人生の分も悩みや問題を共有して人生を重ねるのはなかなかに大変だ。
【余談】
故・高畑勲氏が宮崎駿氏を評して「宮さんは登場するあらゆるキャラクターに自己を深く投影し、そこから物語を生み出す。キャラクターに自己を重ねる様子はエロチシズムすらある。」というようなことを書いていたことを記憶している(細かいニュアンスは異なるかもしれない)。
宮崎駿作品の面白さの理由が高畑勲氏から見た独自の切り口で書かれていて、納得すると同時に宮崎駿氏のすごさも痛感した。

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考えすぎる葦
ひとつめに書いた『脳内(思考)の解像度の高さ』と共通するのは、思考過多(考えすぎ)という点。
考えることが多すぎて脳内が過剰にブーストされた結果、オーバーヒートしてしまい身体に影響がでるのだ。
極度の気疲れというか、思考疲労とも言えると思う。
思考の切り替えができたり、うまくコントロールできる人にとっては無縁の問題かもしれない。
自分の経験と周囲からの知見をもとにした解釈なので、もし当てはまらなかったらゴメンナサイ(汗。
単純にストーリーや企画を考えるストレス、あるいは原稿の締め切りとかもある気がします。
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漫画を本格的に描く以前は、有名な文豪らをはじめとしてなぜ多くの作家が精神的な不調を抱えるのか不思議だったのだが、それが自分が漫画を描くようになって理解できた(気がした)ので今回このようなテーマで書いてみた。
夏目漱石は極度の胃潰瘍だったらしいが(胃がんだったという説もある)、想像を超えるような思考の宇宙が彼の頭で展開していたに違いない。
もちろん作家ではなくても、考えることが多い仕事をしていたり、そういった状況下に置かれると不調になるのは想像に難くない。
パスカルは「人間は考える葦だ」と言った。
が、「考え過ぎる葦」になるのはどうもイクナイらしい。